実写化という名の悲報
『○○待望の実写化!』
『あの傑作がついにスクリーンで!』
こういう広告を見ると実に辛い。
「ああ、作品離れが進んでしまいかねない…」
と、ひしひしと危機感が私を苛むからだ。
というわけで、今回は予告どおり実写化の話をしよう。
私の悲哀と憤りをどうか聞いていただきたい。
実写化とは何なのか?
文字通り、小説であったり漫画であったりを実在の人物に起こして演じさせるものだ。
それにどんな意味があるのか?
それがわからない故に、昨今の実写化至上主義とも言うべき風潮に私は困惑するのだ。
別にちはやをふったり結んだりする映画とか、死神が出てくる死の手帳とかに物申そうというわけではない。
実写化され大ヒットした作品が多いことも重々承知だ。
だがしかし。
なぜ小さい錬金術師とか攻撃してくる巨人とかを実写化する必要があるのか?
そこがどうしてもわからない。
そも、小説や漫画とは架空の世界を構築するものだ。
小説はそれを文字のみで為し、漫画は絵と文字で為す。
作者の頭の中には、作品の完成形、向かう先、キャラクターの輪郭や背景、構築した世界観が必ず存在する。
向かう先を決めていない方がいるのは知っているが。
それはどんな状況設定の作品にも変わりはない。
現代の日常を描こうが、近未来の戦闘を描こうが、異世界の魔法を描こうが、作者の意図や想像といったものは必ず表れる。
昨今の、詳細な設定を是とし、キャラの細かい外見描写を重視する風潮はここに起因する…と、この話は長くなるので次回に回そう。
意図せず次回のネタを得た。
話を戻して。
とにかく作者の意図や想像は同時に読者にも多かれ少なかれ伝わるものだ。
しかしながらその伝わり方が各個人によって異なるのはもちろん自明である。
特に小説ではそれが顕著だ。
一例を引こう。
『黒髪の美しい人』
この単語を見て想像したのはどんな人物だろうか。
単語を見たのが男性ならば。
黒髪を結い上げた和装美人かもしれない。
黒髪を腰まで流すドレスを着た美女かもしれない。
もしかすると、ショートカットのボーイッシュな少女かもしれない。
単語を見たのが女性ならば。
黒髪を刈り上げた野生的な魅力の男かもしれない。
黒い癖毛を遊ばせる物憂げな美青年かもしれない。
もしかすると、長髪を一本縛りにしてモノクルをかけた学者風の紳士かもしれない。
漫画のごとく絵がないゆえに、人物設定が簡素だと同じ作品内であってもそれこそ何百万、何千万もの『黒髪の美しい人』が誕生するわけだ。
そんな数多の想像を完全に破壊するのが実写化である。
先の例を引けば、『黒髪の美しい人』というのを俳優の某という枠で固定してしまう。
想像とその俳優が合っていた、という人ももちろん存在するだろうが、まあ一握りだろう。
だが、「人物設定が簡素」な小説はまだ許容範囲が広い。
なぜならば「簡素」ゆえに、「こういうのもあるのか…(孤独のグry感)」という視聴者の納得を得ることが出来る。
反対に「詳細」な小説はなかなかに難しい。
ほぼ確実にその設定に合った俳優を見つけるのは無理だからだ。
だんだん許容範囲は狭まってゆく。
さて、ここで人物設定以外も注目してみよう。
それは「作品の世界」である。
例えば現代日常系統や推理小説、犯罪系統の小説も「現代」や「昔の現実世界」という観点から、知った役者が出てきても納得しやすい。
先に例として上げたちはやをふる漫画なんかもその類だろう。
架空物はなかなかに難しい。
いくらCGが発達しても先程言ったように、世界そのものにも数多の想像が存在するからだ。
制作側と視聴者側の差異が大きいとよろしくない。
ここで一つ、実写化以外にも目を向けてみる。
アニメ化•コミカライズというやつだ。
コミカライズという奴はわりといける。
なぜか。
前の話題につながるが、実写化に比べ自由度が高いからだ。
俳優という個性を持った人間に比べ、そのキャラのためだけに構築されたキャラ絵はいかようにでも描ける。
外人だろうが異世界人だろうが異種族だろうがドンと来い、というわけだ。
対してアニメ化。
これも自由度は高めだが、「声」と「動き」、そして「間」が加わることでコミカライズには自由度で劣る。
意外とこの「間」というヤツは大切だ。
ギャグ漫画を日常的なゆったりした速度でやられると作品の良さは活かされない。
しかし実写化よりは無理な動きが出来るので、まだ許容範囲内であろう。
ここまでを踏まえて。
小説の映像化というのは難しい、ということが伝わっただろう。
しかし。
しかしだな。
小説はまだ自由度が高いのだよ。
数多の想像があるというのは、前述した危険性を内包するとともに、許容範囲が広いことの裏返しになり得るからだ。
問題は漫画の実写化だ。
これは難しいなんてもんじゃない。
まず「絵」と「ストーリー」、それに「キャラ」「種族」「動き」と来た日にゃ匙を投げたくなる。
限りなく自由度が低い。
先程から言っているように、日常系ならばまだわかる。
ただ架空物はいけない。
絵でキャラが設定されているとき、読者が想像するのはその絵しかないからだ。
とすると絵に合わない俳優を使ってもあまり良くない。
ゆえに今一つになる。
また物理法則を無視した動きなんかをするバトル系統もいかん。
どうしたって無理が出る。
例外はメガネVS例のあの人の映画だろうか。
魔法は実にCG映えがするのでわかりやすい。
まああれは杖から魔法が出るだけで物理法則にはある程度従うからな。
さらに漫画では容易な、デフォルメしたキャラというのが使えない。
シリアスからゆるゆるした場面への転換がしやすい、というのがデフォルメの便利さだが、実写化ではそれは難しい。
さらにさらに言えば、別な役をやっていた役者さんが他の役をやっていたときの違和感というのも出やすい。
俳優は「そのキャラだけの」俳優ではないからだ。
さて、ここまでの流れでおおよそ私の言いたいことを掴んでくれたと思う。
要は二次元を三次元に持ち込むな、ということだろうか?
二次元では自由度が抜群に高いのだ。
その中では数多の想像が羽ばたき、作者の意図を曲がりなりにも捉えた読者の楽園が存在する。
それに実写化という枠を嵌めることは、あたかもヴィーナスの失われた両腕を復元しようとする試みに等しい。
個々人の「世界最高」を汚すのは文化の冒涜でしかあるまい。
もちろん実写化されることで作品がさらに磨かれるようなときもある。
ゆえに極端なことは言い切れないのだが、大多数の作品においては、多くの人が私の意見に同意してくれるのではないか。
まあそれは、読者の判断を仰ぐしかない。
と、まあこんなところで実写化についての考察を終えよう。
一つだけ付け足すとしたら。
制限時間に収めるために脚本弄るのはマジでやめろ。
作品を汚すな。
それぐらいだ。
だが、我々視聴者側も懐を深くすることは必要だ。
頭ごなしに否定しては何も生まれないのだから。
それこそ「こんなのも(ry)」と広い心で受け入れなくてはならない。
ということで、今回はこの辺で終わり。
次回は前述したとおり、近頃の小説や漫画の風潮について書こうかな。
それでは。
活字は生きている(狂気)
まずはお礼をば。
小生、粗忽者であるが故、つい先程アクセス解析なるものの存在を知ったのだが。
考えていたよりも多くの人がブログを読んでくれているようだ。
ありがたい。
知り合いの変人が一人二人読むかどうか、と思っていたら二桁だ。
驚いた。
感謝感激猫灰だらけ、五体投地でご挨拶ってなもんである。
いやまあ、それにしてもなんだい。
人妻の回、読んでくれた人はどう思ったのかね。
次の人気の話はかなりまともだったのだが、こういう気違いが書いているのだ、ということがわかってもらえただろうな。
これで初っ端から読者を減らしていくのは面白いことではあるが。
少し欲張ってお願いをしよう。
私のブログのネタは、ほんの些細な違和感やら疑問やらを考察して書き上げるのだが。
ぜひネタを恵んでください。
ツイッターでもブログのコメントでも構わん。
なんか投げてくれたらネタになるかもしれません。
どうぞよろしく。
とまあ、お礼と身の程知らずのお願いはここまでにして、今日は私自身の趣味について語ろう。
三回目にしてやっとブログっぽいじゃないか。
私は本を愛している。
愛さぬ理由がない。
三度の飯より、とはよく言うが、マジだ。
マジもんのマジでガチである。
幼い頃、私の家の周りには同年代の子がいなかった。
いたにはいたんだが、あまり遊ばなかった。
そうすると、必然引きこもって遊ぶ羽目になる。
当時我が家は鎖国していたので、ゲームという文明は開化してなかった。
まずハマったのが折り紙だ。
これはもう腐るほどやった。
今でもチョコとかアメとかの包装紙で鶴を作って喜んでいる。
馬鹿である(直球)。
次がお絵かき。
これも腐るほどやったが、可愛くねえことに白黒デッサンだ。
色塗りという過程が理解できなかった故だ。
そのため今でも色塗りができない。
三つ子の、とは言い得て妙だ。
そして最後に、読書である。
これは腐るほど、ではない。
実際に腐っている。
本当にそれしかしてなかった。
起床→読書→朝食→読書→昼食→読書→昼寝→読書→夕食→読書→就寝
これが母から聞いた四歳当時の私の一日だ。
いや、馬鹿だろ?
絵本から漫画まで、読んだ読んだ。
多くをというより読み返しが多かったんだが。
そもそも家に本がいっぱいあって、読んでくれ、と訴えているのである。
読まない理由があろうか、いやない(反語)。
少しくさいことを言わせてもらえば、本とは私にとって知らない世界を教えてくれる師匠であり、会話してくれる友人であり、導いてくれる先達なのだ。
私は本に育てられたと言っても過言ではない。
まあ、こういうひねくれた人間が出来上がっているのを見ると、我が家にどういう本が置いてあるのかは言わぬが花、というやつだろう。
それはさておき。
私はひどい悪食だ。
何でも読む。
純文学、ファンタジー、SF、ミステリ、サスペンス、アクション、政治、科学、哲学書、宗教、漫画、エッセイ、詩、近頃はラノベだって読むし、この前はBL系まで読んだ。
とにかく面白ければいいのだ。
ストーリー展開、キャラ設定、状況構築、表現力、どのカテゴリだろうが、なんでもいい。
面白ければ読む。
面白くなければ読まない。
そうやって本屋を物色するのが楽しみの一つである。
よく本を薦めてくれる人はいるが、皆薦める時躊躇うようだ。
自分の好きなものが否定される可能性があるわけだから当然だけども。
私が本を薦められたとき、必ずすることがある。
私は否定する前に読む。
読んでから納得できない部分とか合わないな、と感じるところを激論するのだ。
これが実に楽しい。
まあ私に本を貸してくれたりする人って変わった人多いんだけども。
だからあんまり合わなくないんだな。
「これ良かった!」
「でしょう!」
で盛り上がって終わり。
何が言いたいかというと、否定する前にまず経験、というのが大事。
『人の靴を履いてみるまでその人のことを否定してはいけない』
ネイティブアメリカンに伝わることわざだが、これに尽きる。
だから、私はキリスト教を糾弾しようと考えたとき聖書を読んだ。
クルアーンは手に入らなかったので未だISはそれほど糾弾していない。
遺跡壊したのだけは許せん。
命より重いもの、などとは言いたくないが、数多の人間の命を負ってきた美術品を壊すということは、同じだけの数の人間を再び殺すことに等しい。
そこだけは決して、許すことができない。
話が逸れまくっている。
私が本を愛する理由というのはなんだ、という話だったかな?
タイトル通りだ。
書物の文字には力がある。
古今東西多くの思想が生まれ、消えてきたが、後世の我々はその一端を垣間見ることが出来ているのだ。
これを幸運と呼ばず、何を幸運と呼ぼう。
書物は思想の凍結、とはかの湯川秀樹先生がおっしゃったことだが、なるほど、核心をついている。
私はその力に触れ、思想に触れ、その時代を旅する。
その高揚感と未知への好奇心、そして狂おしいまでの興奮と中毒性こそが私が本を愛する理由だ。
ぜひ一度その世界に身を委ね、溺れる経験をしていただきたい。
歓迎しよう。
本という名の奈落は、かくも深く澄んでいるのだ。
いや、溺れずに勉強しろよ。
…真面目な話をかっこつけてする、という慣れないことをしたので疲れました。
次回はもっとかるーくゆるーくいきますよ。
次は実写化について書きましょうかね。
それではまた。
お題、よろしかったら投げてくだしゃんせ。
「人気」と「人気」
次の空欄を埋めよ。
A「ずいぶんと人気のねえ水族館だな、こりゃ」
B「まあしょうがないですね、さびれてますし」
A「ああ、腕がなるぜ。で、どうだい?」
B「 」
1 早速建て直しプランを練りましょう。
2 早速除霊しましょう。
さて、皆さんはどちらだと思っただろうか。
おそらく一番を選んだ人は「人気」を「にんき」と読んだはずだ。
二番を選んだ人は「ひとけ」と読んだのではなかろうか。
まあそういう風に作ったつもりであるので、そうでなかった人には謝るしかないのだが。
と、いきなり変なことを言い出したのもこの「人気」のせいである。
日本語はかくも難しい。
ことの発端はある文章である。
我が家には昔のものを取っておく棚があるのだが、そこをちょっと整理したときだ。
小学校時代の漢字練習プリントが出てきた。
そこには
『人気のない□□□』
とあって、□の上には「すいぞくかん」とルビがある。
これが冒頭のクソ問題につながるのだが。
まあ、随分とひどい例文もあったもんだ。
これを小学生が解くのかと思うとなかなかに世知辛い。
確かに「にんき」がなけりゃ「ひとけ」もないのは間違いない。
世の道理だ。
だが与える印象はまるで違うじゃないか。
「にんきがない」ならば寂れた感じで、経営不振かな、全部不況が悪い、と神を詰りたくなってくる。
「ひとけがない」ならばどこぞの小学生やら高校生やらがキャーキャー言いながら肝試しにでも繰り出しそうだ。
その後、小学生が異界につれていかれるとジャンプまたはホラー案件だし、高校生が仲良くなるとラブコメまたは文春案件なわけだが。
滅せよリア充。
話が逸れた。
とにかく同じ漢字でも読み方によって与える印象は変わるわけだ。
同じマイナスイメージのある単語のくせに、「にんきがない」では切なさと悲しみと悔しさが相俟って一抹の哀愁を誘う。
「ひとけがない」ではおどろおどろしい中にもほんのり未知との邂逅を夢見るような一つまみの高揚感が存在する。
なぜだ。どうしてこうなる。
和語と漢語の違いがいけないのだろうか。
和語•漢語というと代表例は「市場」と「生物」だろう。
たしかに「いちば」や「なまもの」には独特の柔らかさというか生活感溢れる素朴な感じがするものだ。
対して「しじょう」「せいぶつ」と来た日にゃ現実を突きつけられる気がして心が休まらぬ。
私だけだろうか。
そんなことないだろう。
ないよね?
まあ、それはさておき。
和語•漢語の違いは実に侮れない。
私はひどく恥をかいたことがあるのだ。
昔も昔、私が純真無垢なクソガキだった頃の話である。
小学校四年生くらいだと記憶している。
当時私は歴史小説にハマっていた。
いや今でも好きだけども。
ある一節に主君と家来の一幕があった。
「ええい、黙れ!こやつを縛り上げよ!」
「殿、落ち着きなされ!大人気ありませんぞ!」
ここである。
ここまで読んでくれた優しい読者の方々は理解しただろう。
そう。
私は「おとなげありませんぞ」を「だいにんきありませんぞ」と読んでいたのだ!
いや意味的には間違っていないじゃないか!
「おとなげ」ないことしたら「だいにんき」ないだろう!
今でも通ずる我が家恒例のネタである。
いや、実に見事な赤っ恥だった。
本当に日本語とは難しいものだ。
意味がそこまで違わないことがまたひどく混乱を招く。
先の「大人気」だって文脈に沿わなければわかったはずだ。
だが曲がりなりにも文意は取れるのだ。
これが厄介なところである。
これはわりと受験生には苦しい問題である。
これどっちだ、と思わせる問題はそうそうないが、ちょっとでも気を抜くとまるでトンチンカンな答えを書きかねない。
是非気をつけてほしい。
漢語へのヘイトがある程度溜まったところで漢語の好感度を上げることにしよう。
漢語のメリット。
それは「なんか強そう」というイメージである。
考えてもみてくれ。
和語だけというのは随分とほんわかするじゃないか。
次に会議の一幕を和語で示す。
『次のお話はどう考えるか言ってください』
『そのお話は少し気が早いと思います』
いや、おい。
学級会じゃねえんだぞ。
まあちょっと強引すぎるが。
続いて漢語あり。
『次の案件についての考察を発言してください』
『その件は時期尚早と愚考します』
なんか強そう。
でも言ってることはほぼ変わらんのだ。
つまり我々は頭の中で和語•漢語の翻訳をすればちょっと強そうに見えるよね、という話だ。
これは結構大切で、言い訳にはよく使う。
だって「電車が遅れました」より「○○線遅延です」の方が避けられない運命っぽいじゃないか。
仕方がない、という感じがひしひしと出ている。
と、まあ人気の話から二転三転したがこんなところでしめたいと思う。
和語漢語に負けぬよう、考えて読むことが大事だ。
ちなみに「大事」は「おおごと」じゃない。
にほんごってむずかしいね。
まあ黙って勉強しろよ、私。
○○ってどう思う?
「人妻」ってどう思う?
いや、ブログ初っ端の話題がこれってどうなんだとは自分でも思うんだが、しょうがない。
最初の一文を見て戻ろうと思った人。
あなたは正しい感性の持ち主だ。
だがとりあえずは最後まで読んでくれ。
このブログは全年齢対象だし、男女問わず読める(と思う)。
最初の一文を見て興味を持った人。
とりあえず反省してくれ。
五秒懺悔したらどうぞ読み進めるんだ。
言っておくが別にそういう話じゃない。
後悔するなよ?
「人妻」という言葉を聞いたことがあるだろうか。
私はつい先日聞いた。
「―お前人妻ってどう思う?」
「難しいなあ…」
電車の中で近くにいた男性二人の会話である。
いきなり何を、とか難しいって何が、とか電車の中やぞ、とか一瞬で色々なことを考えたが、二人が下車してしまったために続きは聞くことができなかった。
この時点で私は五秒懺悔すべき人間である。
気になる。
気になるがとりあえず犯罪にならないことを願うしかない。
もちろん本題はそこではないのだ。
私はそれを聞いて考えてしまった。
それすなわち。
「人妻」の男性バージョンとはなんぞや?
ということだ。
実はこのネタは一度後輩とともに話したことがあるのだが。
そもそも、今日「妻」とは男性の配偶者である女性を指す意味で使われている。
他人の奥さんであるから「人妻」。
悪くない。
いや違うそういう意味じゃないんだそんな目で見るんじゃない!
定義として間違っていない、ということだ。
ところが男性バージョンと言われるとはたと詰まる。
女性の配偶者である男性、すなわち「夫」。
「夫妻」の言葉通り妻の対義語ならば夫が妥当である。
ならば「人夫」か?
それは「にんぷ」としか読めない。
ならば「間男」?
それは世の既婚男性に失礼だ。
間男の溢れる世間なんざ、どこの昼メロだと怒鳴りたくなる。
と、そういう話をしたところで仮説を立てた。
まずは「妻」ということが両性用という可能性。
妻というのは「配偶者」ということで格別女性を指す言葉ではないということ。
事実「夫」という言葉は「つま」とも読める。
そうすると隣の旦那さんも向かいのおやっさんも「人妻」となるのだな。
…寒気がするがまあいい。
もう一つは、女性がモノとか財産としてしか扱われなかった男尊女卑の時代の名残、という可能性。
女性蔑視とか言っている女性自立運動のお歴々に殺されそうなことを言っているが、通報はしないでくれ。
私はまだ死にたくない。
それはさておき、どういうことかというと。
モノ扱いであるが故に人のモノ、所有物という意識で「人妻」というわけだ。
これはなかなかエグい話で今も残る差別用語とやらにも通ずるものがある。
知らないと差別になってしまうわけだ。
レディファーストなんつうものは元々は女性を先に部屋に入れたり食事を取らせたりすることで暗殺を防ぐものだったらしいし。
下手すると女性にこてんぱんにされる。怖い。
まあレディファーストをするような間柄の女性はいないから杞憂なのだが(自嘲)。
閑話休題。
何が言いたいか、というと。
どちらの仮説にしろ他者の配偶者である男性を示す言葉ははっきりとは存在しないわけだ。
すなわち「人妻」の男性バージョンはあったとしてもなかなか使われにくいのだ。
前者の仮説の場合は皆が知らないから。
後者の場合は男尊女卑の考え方の名残が男に当てはめることを封じているから。
まあそんなところだろう。
一応の解決はみた。
少し満足。
まあ、我が国の男女間における貞操観念の相違と考えるとわからんでもないが。
ちなみに「人妻」という言葉に妙に背徳感を感じる人がいる理由もはっきりとは存在しない。
存在しないのだ。
ないったらない。
そういえば聖書の中でも有名なモーセの十戒、その一節にはこんなものがある。
『隣人のものを貪るべからず』
あとは別の書だが(名前は忘れた)こんなものもある。
『隣人を羨むべからず』
昔から隣のものは芝生でも奥さんでも綺麗に見えたのだな。
かくも人間の業は深いものである。
とかなんとか考えているうちに自宅の最寄り駅についてしまった。
慌てて電車を降り、ホームを歩いてぼんやり空を見ると曇っている。
そして気づくのだ。
人妻人妻と言っていた彼らもまた、人妻そのものではなく記号の定義を考えていたのではないか、と。
私は勘違いしていた。
恥ずべきは私の方だったのだ。
彼らはきっとこの曇り空のようにモヤモヤしていたに違いない。
そう考えて、ついでに他人の意見を聞きたいと思って、愚かにも私は言う。
彼らの二の舞になるのだ。
「ただいま」
「おかえり」
「弟よ、人妻ってどう思う?」
「救急車呼ぶ?それとも通報がいい?」
かくも現実は理不尽である。
いや勉強しろよ。
※本ブログはノンフィクションです。
いささか出来過ぎだとか盛ってるとか言われそうだが嘘じゃないです。
本当に。
また細かい定義についてはグ先生をご活用ください。
これはあくまで私見です。お気をつけて。
町中で友人に向かっていきなり人妻の話を始めてドン引かれても、当方は責任を負えませんので悪しからず。
P.S こんな感じで気になった言葉について考えを書き散らすか、生活について書くかすると思います。
今後ともどうぞよろしく。
P.SのP.S 投稿直前、心配になって広辞苑先生に尋ねると、「人妻」は「他夫」とも書くらしい。
「他人の配偶者の女性、または男性」という意味だそうだ。
故に前者の仮説が成り立つ。
以上です。
息を抜きたい(切実)
―徒然なるままに日暮らし机に向かって、心に映りゆく他愛ないことをとりとめもなく書き込めば、不思議と指がすすむことすすむこと―
いや勉強しろよ。
てなわけでブログを始めます(唐突)。
私は若干どころか流行りに乗り遅れたのだが。もう少し早く思いつけば良かった。
なぜこんな時期にブログを始めたのか、というとそれは母との会話が元凶である。
私「読書以外の息抜きなんかないかな…」
母「ブログでもやったら?」
おい待て母よ。
私は理系であるぞ。その息抜きはどうなんだ。
と言いたかったが、私を知っている人間は良くわかっているだろう。私がド文系であることを。理系になりきれなかった文系とは私のことだ。
勿論反論が許されようはずもない。
さらに追撃が来る。
母「というかあんた話してるとうるさいから画面に喋ってて」
弟「ほんとそれ」
私「」
以上が悲しい始まりである。
なんだこれ。
なんでこんないじめられてんの?
まあ、そんな悲哀もあるが、前述のごとく他愛もないことについてつらつらと書きなぐっていくことになると思う。
何を書くのかと問われれば、適当に、と答えたい。
まあ徒然だし。
理不尽な家族、もとい現実にぴょこんと草が生えるような、ちらりと笑えるようなネタが提供できれば幸いである。
P.S.
先に弁明しておこう。
勉強はしている。
勉強はしているのだ(二回目)。