キャラクターは鮮やかに色褪せる 2
昨日に引き続いて文芸作品における外見描写の変遷について、考察を垂れ流そうと思う。
前回は竹取物語と舞姫という有名作を例に引き、描写について観察をした。
今回は考察•解答編である。
どうぞよろしく。
さて、それでは。
現代に戻る前にやることがある。
まずは先日の質問に対する解答を考えたい。
すなわち、「なぜかぐや姫はいつでも美しいのか?」という問いの答えは何か。
皆さんは真剣に考えてくれたことと思う。
あくまで私見ではあるが、私の考える答えは。
「美しいと書いてあるから」。
これに尽きる。
これを聞くと馬鹿にするな、とお怒りになる読者がおられるかもしれない。
決してはぐらかしているわけではない。
だが言葉が足りないことは認めよう。
正確には「美しいと『だけ』書いてあるから」だ。
つまりここで前々回の話につながるのだが、
―ここまで読んできてくれた皆さんには申し訳ないのだが、流石に前々回の記事を要約するのは厄介なので、興味を持たれた方は一つ前の記事を読んでほしい―
やはり「想像」が鍵となるのだ。
竹取物語の描写では、ただ光り輝くように美しいとだけあり、顔はどう肌はどう、などの記述はない。
舞姫の描写でも同様に、日本人と異なる部位の強調と主人公にとって特に印象的なパーツの強調に留まる。
すなわち想像の余地が多分に存在する。
この「想像の余地」こそが、かぐや姫を千年の歴史による摩耗や劣化から守っていたのだ。
先程かぐや姫よりもエリスの方が顔を描き易かろう、と言ったのも「想像の余地」の広さの問題だ。
かぐや姫よりもエリスの方が、描写が多い分イメージしやすい、ということは自明である。
いつの時代においても「美しい」基準は存在する。
時代だけでなく読者個人の「美しい」基準も数多存在する。
その全てにおいて「想像の余地」こそが読者の想像を掻きたて、彼らの中での「『最上級の美しさ』を備えた完璧な女性」を脳裏に描き出した。
ゆえにかぐや姫は、エリスは、色褪せぬ永遠の美しさを保ち、未だ美人の称号を手放さないのである。
さて、翻って現代の作品。
特にライトノベル系統に増えているのだが、詳細な外見描写が特徴的だ。
髪型、髪色、眉毛、目の形、瞳の色、輪郭、肌の色、耳の形、唇の肉付き、歯の形、顎のライン。
手足の細さ、長さ、スタイル、身長、体重、年齢。
事細かに定められた強固なキャラクターはブレることなく作家が敷いたレールをひた走る。
設定が強固であるが故にバックボーンが際立ち、各キャラの個性が活かされ、それがまたストーリーが進む際に大きなエンジンともなる。
今のライトノベル業界、特にファンタジー系統における名作とはすなわち、強固な設定を持つキャラが壮大かつ緻密な設定のストーリーと噛み合い、一糸乱れず進んでいくという、そのパワーと予定調和が十二分に発揮されている作品だろう、と私は考えている。
それもいい。
設定が詰め込まれたキャラはほぼ一切ブレないため、想像がしやすく迷走しない。
さらに途中で変化が加わる場合の、一瞬にして新しい設定へと変化する、あたかも蝶の羽化を見るような美しさもまた細かい描写ゆえに生まれるものだ。
例えば「かぐや姫が髪を切った」と言っても元々の描写がないために、そこまでの感動はない。
しかし、「サ○エさんがストレートヘアーになった」と言われたときの衝撃は計り知れまい。
少なくとも私は飛び上がって驚く。
サザ○さんとかぐや姫の違いは設定の細かさにある。
この変遷は何が原因なのか。
私はゲームやアニメが影響していると考えている。
凄まじいまでの技術革新と作画レベルの向上、デジタル絵の普及につれて、アニメやゲームのイラスト、作画は著しく上昇した。
それの影響か、作家、特にネット及びSNSによく触れるであろうライトノベル作家達はキャラの視覚的イメージを作りやすくなった。
キャッチーでインパクトがあり、テンプレート。
キャラクターに与える色彩も豊かになっていく。
また、キャラに対し小難しい形容表現を使用することが重要でありかっこいい、というよくわからない風潮も、設定を詳細にしていくという流れを大きく後押ししている。
強固かつ詳細な設定が悪いわけではない。
だが、段々とその形容詞が独り歩きし始めていることに気づいている人はいるのだろうか?
その形容詞達は「属性」と名前を変え、多種多様なキャラクターにタグ付けされることになった。
それこそ「金髪」「健気」「美少女」「不憫」などとタグ付けされたキャラクターなど、数え切れないほど存在する。
しかし、彼女らの中にエリスほどの存在感を残しているものがいるだろうか?
「想像」によって生まれる複雑な美しさと枠にはめられた単純な美しさ、どちらがより印象に残るだろうか?
私は前者であると思う。
彼女らの最大瞬間風速は確かに大きいだろう。
だがエリスのように百年を超えてなお吹き続ける風には、敵うはずもない。
ましてやかぐや姫をはじめとして、千年を超え息づく古典の登場人物とは比べるべくもない。
今から、百年。
立っているのは誰か、と私が問われれば。
エリスであり、かぐや姫である、と答えるだろう。
前述したとおり、作家たちは視覚的イメージに頼ることが増えた。
視覚的にイメージしやすい、いわばイラストにしやすい詳細な設定は実に色鮮やかで、読者からしても楽しいことは否定しない。
だが我々は、一時の単純な美しさをもって「想像の余地」を削り、自分たちで創造する「理想像」を生み出す前に無視している。
タグ付けされ、詳細な外見描写と設定という強固な枠を嵌められたキャラクターたちは、読者が読み取りやすい視覚的な鮮やかさを纏い、それがために量産化されたマネキンと化している。
いまや鮮やかな描写こそが、キャラクターの価値を、美しさを色褪せさせてしまっているのだ。
外見描写がいらないと言うわけではない。
竹取物語のごとく「美しい」と書くだけでは描写が足りないことも重々承知している。
だが下手に形容詞を連発したり、大した意味もなく美しさを披露するような行為は逆効果だ。
それは作者が強調したい部分がどこなのか不明瞭になる上、キャラクター、さらには話自体の主題がぼやける可能性が大きいからだ。
我々学生が書く作文や論文でも同様である。
修飾語や喩え話を連発しても内容が薄っぺらくなるだけであることはわかるだろう。
それと同じだ。
作者が生んだ世界で、作者が生んだキャラクターたちは息づいている。
その彼らが色鮮やかに色褪せていくのは、一人の読者として非常に残念だ。
我々人間には汲めど尽きせぬ想像力があるのだから、それを活用することも大事なのではないだろうか。
次回のネタは考え中…。
それでは、また次回。
P.S 私がタイトルを気に入っている理由、おわかりいただけただろうか…?
自分の中ではかなりのヒットである。
なので少し浮かれてます。
こういうの楽しいよね。
こんな私ですが、今後ともよろしく。