浅き夢見じ酔いもせず(未成年だし)

 
 
 色は匂へど 散りぬるを
 我が世誰そ 常ならむ
 有為の奥山 今日越えて
 浅き夢見じ 酔ひもせず


 言わずとしれたいろは歌である。

 遥か昔から我が先祖たちは洒落が好きだったのだろう。現代では母音の別と子音の連なりによって並べられている五十音を、意味ある歌に並べているのだからその手腕は称賛されるべき見事なものだ。

 意味(あくまで個人の見解である)はざっくりと以下のとおり。
 
 ―匂い立つように薫っている美しい花も散ってしまうのに、この世の誰が常に不変であることができるだろうか、いやできまい。緑深い山を踏み分け踏み分け進むように、今日もまた辛く儚い現世を越えていくのだ。救いたる極楽往生よりも底浅い夢(権力や富貴)など浅ましくて見ていられない。それに酔ってすらいないというのに―

 よくもまあ上手く作ったものだ。
 諸行無常や色即是空、盛者必衰などを盛り込んで仏教と絡めると、上記のような意になろう。

 まあ、現代を生きる庶民な我々からすると、権力もくそもないし、世を儚むほど枯れてもいないので心の片隅においておくくらいが丁度良い位置ではあるのだろうが。

 さて、権力や富貴はともあれ、我々が酔うものとは一体なんであろうか。

 今はあちらこちらに底も見えぬ泥沼があり、腐ったり百合の花が咲き乱れたり、はたまたメガネとチェックシャツのますらお共が足と言わず手と言わず囚われたりしているわけだが。


 今日は嗜好品に目を向けたいと思う。


 ついにタバコが500円代の大台に乗ったのである。
 いや全くすごい価格になったものだ。一箱で文庫本一冊買えるのだ。
 私は紙巻きは好かないが、ここまで来ると今も尚吸っている人たちに興味が出てくる。

 そんなに美味いものかね?
 我が恩師にも愛煙家がいらっしゃるが、そういえば先日お会いしたときは電子タバコに換装しておられた。いかに豪気な恩師といえど、時流には敵わなかったようだ。


 ちなみに私事ではあるが、私は学生の頃ファミレスなどに行くと、
 「喫煙席でよろしいですか?」
 と言われるのが常であった。
 一緒に行く朋輩は揶揄に口角を吊り上げながら、私に入店時の対応を任せたものである。こんちくしょう。
 まだ若いのである(強調)。
 いくら吸ってそうに見えても酷くないだろうか。
 とかなんとか言ってるうちに吸ってもおかしくない年齢になってるわけだが、少しばかり腑に落ちぬ。

 ついこの間もカフェらしきものを訪れた際、にこやかに
 「喫煙席、奥になっております」
 と言われたときの心情は、心胆を寒からしめるものであった。
 決めつけ、よくない(逆ギレ) 。


 閑話休題


 今は至るところに分煙スペースとやらが完備され、嫌煙者が訴える副流煙による二次喫煙の被害も大方収まってきたように思われる。友人にも二人ばかり体質による嫌煙家がいるが、彼らのためにも喫煙者にはマナーを守っていただきたいものだ。

 とはいえ、時流が片方に傾くと雨後の筍、夏場のボウフラ、はたまた春雨上がりのつくしのごとく阿呆が湧いて出るのが世の常である。

 極端な嫌煙団体は映像作品の中での喫煙シーンにまで文句をつけるというのだから、阿呆もここに極まれり、というところであろう。もしや彼らだけ時代を先取りして4Dの上映会をしてるのだろうか。なにそれずるい。

 正直な話、私自身は喫煙シーンを見ることは好きである。洋画でダンディな俳優が葉巻を燻らせたり、パイプを咥えてたりするのは絵になると思うのだが、どうであろう。邦画で言えば煙管をぷかぷかやってるご隠居やしどけなく寝そべる花魁であろうか。うむ、実に良い(本音)。

 別段、自分で吸いたいとかではない。
 タバコは味蕾が潰れるそうではないか。私は美味いものが好きなのである。

 ただ、表現技法の中での喫煙くらいいいだろう。シャーロック・ホームズがパイプじゃなくてチュッパチャップス咥えてたら残念極まりない。マッカーサーがポッキー咥えてても格好が付かないではないか。
 何事も妥協とバランスであるし、そもそも表現の自由は妥協せずとも保証されているのである。

 さらに言えば、どんなに高くても買って楽しむ人がいるのならそれは個々人の自由であり、マナーを守ってさえいれば外野が口を挟む領域ではない。これからも棲み分けにだけ留意すれば世界は平和である。

 一つアイディアを述べるとすれば、紙巻きを撤廃してパイプや煙管だけにすれば持ち運びに難があるゆえ、外で吸う人は減るのではなかろうか。というかイカした人が足組んでパイプ咥えてるの見てみたい(願望)。



 さて、お次は酒である。


 これまた難しい話ではあるのだが、実に悔しいことに日本では二十歳未満の飲酒は違法なのである!

 いや、悔しいこと極まりない。我が両親は自他ともに認める酒豪であり、休日はワインやら日本酒やらの杯をかぱかぱと空け、瓶を減らしている。実に旨そうに飲むものだから、こちらも二十歳になるのを涎を垂らしながら待ち望んでいるのだ。


 先に行われた選挙権の年齢制限引き下げに伴い、選挙権は十八才から給付されるようになったわけだが、なぜ民法も改正して飲酒の年齢制限も引き下げてくれなかったのであろうか。

 どうせ頭の硬い大怪獣・教育ママゴンが全国的に大量発生したに決まっている。許すまじ。進化したゴジラでもあるまいし、形態変化などせずに大人しくPTA会合にでも出ておけば良いものを、理性なきヒステリックな怪獣ごときが何を出しゃばるのか。憤懣遣る方無いとはまさにこのことである!立てよ国民!!


 まあ過激な発言はともかくとして、なぜ日本の飲酒が二十歳からなのか。外国では十五くらいからでも飲めるところはある。というか向こうではワインが水代わりである。

 理由はいくつかあるだろうが、日本人のアルコール分解酵素が弱いというのがある、らしい。外国人は強いから、だと阿呆っぽい理由だが、体質的にそうなのだから仕方ないのかもしれない。

 確かに北の大地で熊とやり合うお国や、南欧の砂漠でパスタうでるお国は皆強い。だが、我が国でも東北やら薩摩隼人やらも強いと思うのだがどうだろう。そもそも食生活がアメリカナイズされている現代にどうのこうの言うか、と考えると首を傾げたくなるような話ではあるのだが。日本人も腸が短くなってるようだし、野菜大好き無形文化遺産「和食」の未来は、意外と危ういのかもしれない。


 ま、それはさておき。

 我が美しき故国の風土に目を向ければ、飲料としての酒類が発達しなかったことは自明であろう。酒を飲料にする必要がないほど水が豊富できれいなのだから。正直な話、嗜好品としてのみ活躍してそうである。

 現代のコーラみたいなものなのだろう。人伝に聞いた話で恐縮だが、ある地域では水よりコーラの方が安いらしい。恐ろしい話ではあるが、それは水に愛された国日本に暮らす我々の傲慢である。油が浮いて飲まない方がマシであろう泥水を生活用水としている地域も未だ多くあるのだ。
 上総掘り頑張れ(愛国心)。


 話が逸れた。

 とにかく、得てして法とは、人ではなく土地に依る。ゆえ明治には領事裁判権の有無が問題となったわけだし、今の日本で未成年は酒を飲めないわけだ。ある意味、飲酒の年齢制限引き下げというのは、先進国(笑)かつ水がきれいで平和な国日本であるから言える贅沢なのかもしれない。


 さて、先日のことである。
 我が友人F氏が、未成年飲酒について気炎を吐いておられた。なかなか荒ぶっていたが、奴はこの理不尽なストレス社会に生きていながら色々なことに敏感な、生きるのに難儀しそうな人間である。そこが良いところでもあるわけだが。

 その檄文(ブログ)を読むと、なるほど、しかりと思わせるところが散見される。

 いやはや、耳が痛い所も多々あること。
 言葉を借りて、私が初めて罪を犯してしまったのは小学校四年生の時分であった。当時から大好物であった自家製梅シロップというのを水割りで一気飲みした瞬間、腹に感じるは動悸と共に響く熱。驚愕に目を見開いて大騒ぎした記憶がある。何を隠そう、梅シロップではなく誤って自家製梅酒の水割りを一気飲みしたわけである。色も匂いも似てるとは、いや参った参った。危うく急性アルコール中毒で搬送されるところだった。名付けて「生活上過失飲酒罪」である。

 今となれば笑い話で済むものだが、酒粕を使ったクッキーみたいなもので弟が酔っ払ったのを見たこともある。…いや絶対アルコール飛んでるだろう。弱すぎではなかろうか。


 おそらくF氏が憤っているのは、未成年にも関わらず堂々と店に入って飲む輩だろう。

 悪いことをして自分に酔えるのはそれこそ二十歳未満であろうが、酒に酔っては法令違反である。上には細々と飲酒の年齢制限に関することを述べたが、結局のところ自律できるまでは飲むな、と言われているのだと私は思う。

 バレなければいい。捕まらなければいい。
 そうやって何の信念もなく流されるまま快楽に走ることは、刹那的で退廃的な喜悦を呼び起こすかもしれない。しかしながら、その時点で彼らは真の意味で飲酒を禁ぜられるに足るのではないだろうか。

 「成人」を返り読めば「人に成る」と読める。昏い悦楽に耽る若人が真の意味で「人」となるのは、一体いつの日であろうか。


 「赤信号 皆で渡れば 怖くない」などという軍国主義全体主義を彷彿とさせる狂歌も流行ってはいたが、実行した人間は少なかったであろう。これを問えば多くは一笑に附すだろうが、同じことをやっている人間が多いゆえ笑い話にならないのが情けない次第ではある。

 早く成人したいもんである(切実)。



 さて、嗜好品といえばいくつもあるが、特に酒とタバコなぞについて色々と論を巡らせてみた。

 他には、今は多くの国で禁止されてるが阿片やマリファナなどもネタが多い嗜好品である。嗜んでる内にお隣は国が傾いたりしたし、今でも南米では産業の一角を占めている。昔読んだエッセイには、皆でマリファナを楽しみ、後に全裸でマラソンをするという狂気と正気が紙一重なエピソードが乗っていたが、そんな時代もあったのだから人間とはまこと、業の深い種族である。


 また、悪徳の三要素、昭和のダメ親父のお題目たる「飲む打つ買う」なんかも色々言えそうだ。ちなみに打つのはヒロポンでも覚醒剤でもなく博打である。さらに余談だが、私は弟と丁半をしてピンゾロを連続で出したことがある(自慢)。二人で熱中したせいで角が丸まったサイコロは今でも時々使っている愛用の賽である。
 だから何だよ(自問自答)。


 このように色々あるが、今回はこの辺にしておこう。人間は弱い生き物故に、愛すべき悪徳の嗜好品たちに依存している。人間の業の数だけ、嗜好品が存在するのだろう。そんなにいっぺんに書けない。


 世俗の汚穢に塗れた我々現代人は、嗜好品に頼らねば有為の奥山を越えていくことなど不可能であるのかもしれない。浅ましい、底の浅い夢でも見なければ生きていけないのかもしれない。遥か昔のご先祖様が、悪徳への誘いを振り切って歌ったいろは歌。だが哀しいかな、我々は「浅き夢見」をしなければ色さえ匂わず散るだけなのだ。

 しかしいかに甘美であろうとも、成人するまでの僅かな時に悪徳で微睡んでは駄目なのだ。退廃に溺れるのは後で良い。無常に酔うのは後で良い。そんなものは社会に出てからいくらでも浸れるだろう。我々は未だ被保護者なのだ。若いのである(二度目)。

 もちろん、酒に酔うのも、煙草に溺れるのも後でなくては駄目なのだ。耳障りの良い若さゆえの過ちとは、所詮黒歴史にしかならないのである。



 お酒は、二十歳になってから(広告感)。




 ではまた、次回。