死んだ!!

 先日、髪を切りに馴染みの床屋へ行った。

 そこを経営している理髪師殿とはかれこれ八年ほどの付き合いであり、気安く会話出来る関係である。

 

 そういえば、最近白髪が増えて困る。

 つむじあたりに、ぴょん、ぴょん、と跳ねているのを見ると、否応なく年を感じる(未成年)。



 閑話休題

 先日の話題は、年金問題であった。

 今や約二人の労働世代が一人の高齢者を支えるという社会になっているわけだが、私達の世代は大丈夫なのか。

 とまあ、こんな話をしていたのだが、流れで『死』とはなんぞや、という話になり、理髪師殿はこんな話をして下さった。



 「長いことこの仕事をやってると、何百、何千と他人の頭を間近に見るんだけどね、わかることがあるんだよ。

 髪には人生が表れる。

 お客さんの体調の変化とかその時の精神状態、食事のバランスとかね。結構しっかりわかるんだよ。

 だから、お客さんに合わせて会話をしたり、カットをしたりするんだけど。

 それはさておいて、僕が一番感じるのは、人間は必ず死に向かうってことなんだよね。

 やっぱりどんな若い人でも、何回か来てくれてると必ず毛根が成長したりとか、だんだん毛が細くなってるとか、そういうことが手に取るようにわかる。

 僕たちは必ず死ぬ。
 生まれてからすぐ、僕たちは『老い』という病に蝕まれている。

 ふとそんなことを、仕事をしている時に考えたりすることもある。

 
 その上で僕は、今の人間は『動物』、というか『生物』じゃないとさえ思うよ。

 だってその昔、僕たちの祖先は毛皮がなければ生きていけなかった。

 なのに今は、髪の毛からどんなにこの人が弱ってるってことがわかっても、簡単に死んだりしない。環境とか自然という運命に逆らい続ける僕たちは『生物』と言えるのかな?

 そういう、自然の中にずっと昔から存在する『死』という概念を遠ざけている僕たちが、高齢化社会における、人の手で無理に引き延ばされる『死』を持て余すのは当然だと、僕は思うけどね」




 けだし、至言である。



 その後はなかなか議論が白熱したのだが、博識な方と論を交わすのは実に勉強になる。

 若輩者にはもったいない素晴らしい機会であった。感謝感謝。




 さて、理髪師殿の素晴らしいお話に感銘を受け、なるほど我々は『動物』ではないな、なんと傲慢であろうか、と咀嚼して後。

 祖母の家に行くことになり―と言っても、祖父母は市内に住んでいるので帰省などではないのだが―曾祖母と会話していた際、その話を振ることにした。



 曾祖母は齢九十余を数える、今なお矍鑠とする生粋の大正生まれである。

 頭もはっきりしており、正直凄い人である(語彙力)。

 ナンプレやらクロスワードやらをサクサク解いてる姿を見ると、本当にいくつかわからない。あと十年は死にそうにない。



 まあそれはともかくとして。

 曾祖母は何回か死にかけたことがあるそうで、その度に命を拾っているわけだが、昨今の『死』についてどう思うか、聞いてみた。

 
 ……いや、薄情者とか鬼畜とか責めてくれるな。

 ちょっと興味があっただけなんだ。



 兎に角、理髪師殿の話をして、『死』とはなんぞや、と問いかけてみると、曾祖母は「そうだねぇ」と呟いて、考え込み、そして徐ろに語り始めた。



 「私が若い頃は、人の命なんて今ほど重くなかったような気はするね。

 どこそこの村で一家心中とか娘が売られてとか、聞いたこともあるし。今みたいに過保護ってことはなかった。

 そんな時代をなんとか生き延びて夢中で働いて、気が付いたらこの年になってたわけだけど。

 私も、年相応に何回か死にかけたことがある。

 その時感じたのはね、死ぬっていうのは珍しいものではないし、いつもすぐ近くにあるものなんだな、ってことだよ。

 今は死ぬことを過度に恐れてる人が多いけどね、私はチューブに繋がれてまで生きたいとは思わないよ。

 全く、いつも身近にあるものをどうやって恐れるって言うんだろうね?

 私がこの年まで生きてるのはね、そりゃもちろん薬とか医者の先生のおかげもあるけれど、私自身が生きたい、と思ったからだと思うよ。

 決して自然とか環境の運命とやらだけじゃない。

 死ぬことは私にとって恐ろしいことではないけれど、今はまだ死ぬときじゃない、っていう風に思うんだよ。

 わからないでしょう?

 簡単に言えば『未練』だよ。

 死ぬというより、まだ会いたい人がいる、見ていたいものがある、そう思ってたら死ぬに死ねないと思うけどねえ。

 結局は、全部自分の心持ち次第だよ」



 未だ年若い私には、その言葉を完全に理解することは不可能だ。

 しかしながら、約一世紀を生き抜いた曾祖母の話は、真に迫るものがあった。

 

 昨今の社会問題の一つ、自殺。

 曾祖母の話に従えば、彼らは『未練』がなかったのだろうか?

 悲観して命を断つ程に辛かったのは理解できる。

 そこでふと振り返ると、死がさして遠くないものだったことに気づいてしまったのだろうか。

 彼らは寄る辺ない心境に苦しんで、苦しんで、苦しんで、そしてこの世を去ったのだろうか。




 今、自分や近しい人を思い描くとき、幸いにもというか、自殺してしまうような人はいないが、ひょんなことから隣を歩く『死』に惹かれてしまうのかもしれない。

 自殺でなくとも、事故や事件に巻き込まれてしまうかもしれない。

 その時に、此岸への錨となるよう、目的をもって生きることが大切なのだろう。

 ふらふらと生きるだけでは、生きる意味などないだろうし、生きることへの執着もないだろうから。


 

 大学、受かるぞ(悲壮な決意)。







 「そういえば、今の未練ってなに?」

 「そりゃあんたが結婚するのを見ることかねえ」


 こうか は ばつぐんだ!

 おりぐち は たおれた!



 

 では、また次回(ネタを見つけたら)。



 P.S. 今回話を聞いてて思ったのは、文才がある知り合いが多い、ということだ。流石に年の功だろうか、実に上手い言い回しを考えつくものである。羨ましい。私もそんな才能欲しい(憧憬)。