死んだ!!

 先日、髪を切りに馴染みの床屋へ行った。

 そこを経営している理髪師殿とはかれこれ八年ほどの付き合いであり、気安く会話出来る関係である。

 

 そういえば、最近白髪が増えて困る。

 つむじあたりに、ぴょん、ぴょん、と跳ねているのを見ると、否応なく年を感じる(未成年)。



 閑話休題

 先日の話題は、年金問題であった。

 今や約二人の労働世代が一人の高齢者を支えるという社会になっているわけだが、私達の世代は大丈夫なのか。

 とまあ、こんな話をしていたのだが、流れで『死』とはなんぞや、という話になり、理髪師殿はこんな話をして下さった。



 「長いことこの仕事をやってると、何百、何千と他人の頭を間近に見るんだけどね、わかることがあるんだよ。

 髪には人生が表れる。

 お客さんの体調の変化とかその時の精神状態、食事のバランスとかね。結構しっかりわかるんだよ。

 だから、お客さんに合わせて会話をしたり、カットをしたりするんだけど。

 それはさておいて、僕が一番感じるのは、人間は必ず死に向かうってことなんだよね。

 やっぱりどんな若い人でも、何回か来てくれてると必ず毛根が成長したりとか、だんだん毛が細くなってるとか、そういうことが手に取るようにわかる。

 僕たちは必ず死ぬ。
 生まれてからすぐ、僕たちは『老い』という病に蝕まれている。

 ふとそんなことを、仕事をしている時に考えたりすることもある。

 
 その上で僕は、今の人間は『動物』、というか『生物』じゃないとさえ思うよ。

 だってその昔、僕たちの祖先は毛皮がなければ生きていけなかった。

 なのに今は、髪の毛からどんなにこの人が弱ってるってことがわかっても、簡単に死んだりしない。環境とか自然という運命に逆らい続ける僕たちは『生物』と言えるのかな?

 そういう、自然の中にずっと昔から存在する『死』という概念を遠ざけている僕たちが、高齢化社会における、人の手で無理に引き延ばされる『死』を持て余すのは当然だと、僕は思うけどね」




 けだし、至言である。



 その後はなかなか議論が白熱したのだが、博識な方と論を交わすのは実に勉強になる。

 若輩者にはもったいない素晴らしい機会であった。感謝感謝。




 さて、理髪師殿の素晴らしいお話に感銘を受け、なるほど我々は『動物』ではないな、なんと傲慢であろうか、と咀嚼して後。

 祖母の家に行くことになり―と言っても、祖父母は市内に住んでいるので帰省などではないのだが―曾祖母と会話していた際、その話を振ることにした。



 曾祖母は齢九十余を数える、今なお矍鑠とする生粋の大正生まれである。

 頭もはっきりしており、正直凄い人である(語彙力)。

 ナンプレやらクロスワードやらをサクサク解いてる姿を見ると、本当にいくつかわからない。あと十年は死にそうにない。



 まあそれはともかくとして。

 曾祖母は何回か死にかけたことがあるそうで、その度に命を拾っているわけだが、昨今の『死』についてどう思うか、聞いてみた。

 
 ……いや、薄情者とか鬼畜とか責めてくれるな。

 ちょっと興味があっただけなんだ。



 兎に角、理髪師殿の話をして、『死』とはなんぞや、と問いかけてみると、曾祖母は「そうだねぇ」と呟いて、考え込み、そして徐ろに語り始めた。



 「私が若い頃は、人の命なんて今ほど重くなかったような気はするね。

 どこそこの村で一家心中とか娘が売られてとか、聞いたこともあるし。今みたいに過保護ってことはなかった。

 そんな時代をなんとか生き延びて夢中で働いて、気が付いたらこの年になってたわけだけど。

 私も、年相応に何回か死にかけたことがある。

 その時感じたのはね、死ぬっていうのは珍しいものではないし、いつもすぐ近くにあるものなんだな、ってことだよ。

 今は死ぬことを過度に恐れてる人が多いけどね、私はチューブに繋がれてまで生きたいとは思わないよ。

 全く、いつも身近にあるものをどうやって恐れるって言うんだろうね?

 私がこの年まで生きてるのはね、そりゃもちろん薬とか医者の先生のおかげもあるけれど、私自身が生きたい、と思ったからだと思うよ。

 決して自然とか環境の運命とやらだけじゃない。

 死ぬことは私にとって恐ろしいことではないけれど、今はまだ死ぬときじゃない、っていう風に思うんだよ。

 わからないでしょう?

 簡単に言えば『未練』だよ。

 死ぬというより、まだ会いたい人がいる、見ていたいものがある、そう思ってたら死ぬに死ねないと思うけどねえ。

 結局は、全部自分の心持ち次第だよ」



 未だ年若い私には、その言葉を完全に理解することは不可能だ。

 しかしながら、約一世紀を生き抜いた曾祖母の話は、真に迫るものがあった。

 

 昨今の社会問題の一つ、自殺。

 曾祖母の話に従えば、彼らは『未練』がなかったのだろうか?

 悲観して命を断つ程に辛かったのは理解できる。

 そこでふと振り返ると、死がさして遠くないものだったことに気づいてしまったのだろうか。

 彼らは寄る辺ない心境に苦しんで、苦しんで、苦しんで、そしてこの世を去ったのだろうか。




 今、自分や近しい人を思い描くとき、幸いにもというか、自殺してしまうような人はいないが、ひょんなことから隣を歩く『死』に惹かれてしまうのかもしれない。

 自殺でなくとも、事故や事件に巻き込まれてしまうかもしれない。

 その時に、此岸への錨となるよう、目的をもって生きることが大切なのだろう。

 ふらふらと生きるだけでは、生きる意味などないだろうし、生きることへの執着もないだろうから。


 

 大学、受かるぞ(悲壮な決意)。







 「そういえば、今の未練ってなに?」

 「そりゃあんたが結婚するのを見ることかねえ」


 こうか は ばつぐんだ!

 おりぐち は たおれた!



 

 では、また次回(ネタを見つけたら)。



 P.S. 今回話を聞いてて思ったのは、文才がある知り合いが多い、ということだ。流石に年の功だろうか、実に上手い言い回しを考えつくものである。羨ましい。私もそんな才能欲しい(憧憬)。

戦争について思うこと

 


 久しぶりに声を上げたいことがあったので書いてみようと思う。
 
 我が友S氏にブログを褒められた、というのも理由だが(感謝)。


 
 今日は原爆が広島に投下された日である。

 八月六日午前八時十五分。
 この時間は多くの人が記憶していることと思う。

 今なお残る負の遺産、忌まわしき小さな太陽を、人類が初めて認識したときであった。



 私は実にこの日、その前後が憂鬱だ。

 愚にもつかないようなお涙頂戴番組がテレビを占拠するからである。

 まじでやめてほしい(切実)。



 正直に言おう。

 「もう良くね?」

 と、思う人は少ないだろうか?
 一定数いるのではないだろうか。



 こんなことを言うと、「若い世代はこれだから」とか「戦争を知らないからそんなことを言うんだ」とか「また戦争が起きる」とか、実にくだらないことを頭の硬い、いわゆる『識者』やら『大人』やらが声高に語りだし、私を責めるかもしれない。


 ならば、問おう。

 「伝え引き継いだところで、戦争はなくなったか?」

 第二次世界大戦後、世界は多くの戦争に巻き込まれてきたじゃないか。
 

 
 敗戦直後の苦しい時代、朝鮮戦争の特需景気で糊口を凌いだことを忘れたとは言わせない。

 ベトナム戦争では多くの死者が出て、アメリカには大きな傷を残した。

 冷戦、湾岸戦争だってある。


 何が平和か?



 戦争の悲惨さを語り継げば、後世に伝えれば、平和になるだなんて、馬鹿言っちゃいけない。

 そんな単純な話なら、日本の戦争は『壬申の乱』くらいで終わっている。



 語り継ぐことで日本の平和は保たれている?

 アメリカの核の傘の下、周囲の国々に脅されながら安穏と過ごした七十年を『我々の平和』と胸を張れる恥知らずなどいない、と信じたいものだが。



 戦争は、罪だ。
 
 いろいろなものを奪い、壊し、辱める。

 我々が原初より背負い、これからも永劫背負わねばならぬ業である。

 しかし、それと、悲惨さを被害者にかこつけて公共の電波で垂れ流すことは関係がない、と私は思う。



 戦争の時代を実際に生き延びた人たちも、もう大分少なくなっている。

 いつも気になるのは、彼らが戦争を語るとき苦しげに顔を歪めることだ。

 辛そうな彼らの口をこじ開け、マイクを突っ込むようなマスコミには、ほとほと呆れ果てる。

 
 「戦争と性行為について、未経験者は語りたがり、経験者は口を噤む」


 どこかの国の軍人の言葉であったと思う。
 少々品はないが、実に言い得て妙であろう。


 平成を生きる我々が先の大戦を経験することはできず、我々は未経験者という立場に甘んずることしかできない。

 経験者になりたいわけでもないが。


 ともかく、そんな立場の我々が、口を噤む経験者にむりやり口を開かせるという無邪気な悪意を感じるがゆえ、私はこの期間のテレビが嫌いなのだ。




 戦争を賛美しているわけではない。

 もちろん、戦争は恐ろしく、また醜いものである、と教えることもある程度は大切であると思う。

 しかし、毎年毎年同じようなお涙頂戴番組を見せられる視聴者のことも考えたほうが良い。


 その苦労話を垂れ流すことが、どれほど戦争の存在を軽くしているか、多くの頭が硬い『識者』たちは理解できないのだろう。

 自分たちが実際に経験したわけでもない、脳内お花畑の愚物どもが、嬉々として戦争反対という自己陶酔プレイに没入しているとき、我々の戦争への意識は著しく下がる。


 個人の苦労話は人々の共感を誘うが、過去の被害者に募金は出来ない。

 未来を生きている我々は、個々人の悲哀よりも戦争の原因と諍いや争いの調停をすべきだと言うのに。




 そもそも、だ。

 広島は確かに大変な被害を被ってはいるが、悲惨さで言えば、同じく小さな太陽の餌食になった長崎や大空襲を受けた東京などの都市群、そして最大規模の地上戦が展開された沖縄なども挙げられる。

 広島を特に持ち上げる理由がわからない。


 原爆という珍しい兵器の破壊の跡に野次馬根性で乗り出して、ケーキにたかる蟻か、腐肉に群がるハイエナのようにむりやり過去をほじくり返しているようにしか見えない。

 私が捻くれているから、という理由だけではないだろう。

 ある意味では、人類は未だ原爆に夢中で、核に囚われている、と言える。



 正直に言えば、相当な阿呆か破滅主義者でもなければ、今後核なんてコスパの悪いものをどうやって使うというのだ。

 使った時は素晴らしい破壊力かもしれないが、残りの汚染はどうするのか。

 下手に使えもせず、失敗すればその地域、はたまたその大陸の作物にまで影響を与えるのだから質が悪い。


 流石にお隣の国も、極東で心中を図りはすまい。
 …しないよね?(不安)



 兎に角である。

 死者を悼むことは大切ではあるが、どこか大切なことを見誤ったような放送など、我々には必要なかろう。

 人を殺したくなるほど眩しい太陽の下、陰々鬱々とした番組を見せられて耐えられるほど、精神を鍛えてはいない。

 いい加減、戦争を語る自分に酔う勘違い共には周囲との温度差を教えてあげたいものだが、残念なことに彼らの頭の中には小さな太陽が鎮座ましましているため、常に頭が茹だっているのだ。

 話を聞いてくれるはずもない。

 きっと彼らは1945年8月に囚われ、3Cの一つ、偉大なるクーラーという宝具をご存知ないのだろう。

 哀れなことである。



 私は終戦記念日に軽く黙祷することにしている。

 それ以外のことをするつもりはない。

 それぐらいでちょうどいいだろう。


 阿呆に踊らされて行き過ぎた戦争憎悪の風潮は、かえって戦争の存在を軽くしていることを忘れてはいけない。

 我々に必要なのは『戦争が起きた』ことではなく『なぜ戦争が起こったのか』だし、大切なのは『語り継ぐ』ことではなく『戦争を起こさない』ことなのだから。








 毎年八月に忌々しく思うことを書いた。

 社会派を気取っている感じだが、ただ苛ついただけである(台無し)。

 では、また次回(ネタがあったら)。

苦難と陶酔の本選び


本選びとは、いわば未来の選択である。


選んだ本を読み終わった後、どんな気持ちだろう。


面白くなくて意気消沈しているのか。

面白くて満足しているのか。

トラウマになるほど受け付けなかったのか。

感動して人生が変わるほどの傑作なのか。




その未来を我々は書店で探し、選び、買うわけだ。


ただの無駄に成り果てるのか、値段以上の価値を見出すかどうかは、実に運要素が強い。

その上、リサーチなしで良書を引き当てるのはかなり難しい。

ゆえに、無計画な書店巡りでの購買には、なかなか手を出せない人がいると聞く。


まあ我が愚弟だが。

そこで、今回は本選びにおいて私が気をつけていることを書いてみたい。

今回のネタをくれた弟と他の方々の一助になれば幸いである。




さて、書店は多くあれど構造は似たりよったりなのでそこから攻めていこう。


まずはカテゴリを選ばなくてはならない。

流石に小説を探しに来たのに参考書の棚を見に行って良い本が見つからない、と言われても打つ手がない。

ということで、今回は小説や新書に絞るとしよう。

参考書や図鑑などはわからん。

それこそ中身見て気に入ったら買えばよかろう。


中身がたくさんあって一瞬ではすべてを読めず、選びにくいものを選ぶコツに絞って話をする。




私が買う本に目星を付けるとき、意識する点は全部で四つある。

装丁、タイトル、作者、そして最初の一文である。

これは棚を見た際に目につく順だ。




書店に行って無計画に本を買おうとするとき、人はどうしても自分の好みの本を探そうと努力する。

しかしだ。

数多ある本の中から自分の好きな本を見つけようとするのは、なかなかに難しい。


そもそも無計画に買いに行くなら、新しいジャンルを開拓するつもりで行く方が、精神衛生的にもよい。

そこで注目すべきは上記の四点だ。




この前計測したところ、人がさっと書店の棚を見るとき、一冊の本が目に映る時間は平均して五秒ほど。

あくまで私の平均だが、棚を舐めるように見ても、目当ての本を見つけようとさっと目を通すにしろ、大体五秒と考えて良い。


さて、では五秒で目星を付けるとき人は何を見るか。

まずは斜め置きや平積みされている本の装丁だろう。

これを読んだ方の中には、

「装丁だけで買うなんてありえない。本なのだから中身を読まないと意味がない」

という方もいるだろう。


しかしそんなことはない。

装丁が美しかったり綺麗だったりするものは、転じて出版社や編集者、はたまた装丁家がその本の出版に力を入れている、ということに他ならない。


また装丁が見えるということは書店もおすすめしている、ということだ。

ということは、結構面白い可能性が高い。


さらにこれは私の経験則だが、なぜか目についた、とか、何かに惹かれた、という感覚は大切にしたほうが良い。

読んでみるのも一興、くらいの軽いつもりで読んでドハマりした本もある。




この「装丁買い」で買った本の一つに、私がこよなく愛する珠玉のゴシックミステリ、『この闇と光』(著 服部まゆみ)がある。


これはもう、大正解だった。

わりと古い本だが新装版が出ていて、その新装丁に惹かれて買った。

ネタバレになるので何も言わないが、本当に面白い。

機会があれば、ぜひ御一読を。




続いてタイトル。

これはもう直感だ。


装丁も気に入るか否かは直感の世界だが、タイトルは純粋な作者の才能が見える。

持論だが、タイトルを付けるのが上手い作者は筆力も高い。

綺麗に小説を切り取って、小説を象徴する一言に纏めるというのは才能だ。

その才能がある作者はそこまで当たり外れがない。


もちろん編集者と協力してタイトルを、という場合もあるが、それでもその編集者と作者のコンビプレイならば期待できるだけのものはある。


心に残るタイトルの小説を探すと面白い。




「タイトル買い」でも一つ紹介しよう。

2016年、見事に著作『コンビニ人間』で芥川賞を受賞された鬼才、村田沙耶香先生の『殺人出産』。
この途轍もないインパクト。

出産と殺人、生と死を同列に並べるこのタイトルは物凄い衝撃だった。


ただし、内容はかなり人を選ぶのでおすすめはしない。

それでも気になる方はどうぞ。




三点目は作者。

それまでに読んだことがあって、面白いと思った作品を書いている作者は、まあチェックしておいて損はない。


と言うが、今回はリサーチなしという縛りなので、もう一つ、ポイントを挙げる。

それは作者のプロフィールだ。


流れるように作家になりそのまま作家一筋、みたいな方もいらっしゃるが、ぱっと見ると随分と若い方であったり副業に作家をやっていらっしゃる方もおられて、実に面白い。


その辺りから親近感を覚えて買ってみたり、興味を覚えて買ってみたりすると当たることもある。


ただし、上記の二つほど当たりに確約は出来ない。




さて、「作者買い」では。


プロレタリアート文学、不朽の名作『蟹工船』。小林多喜二著。


小林多喜二が気になって読んだけども、重い。

ドストエフスキーの『死の家の記録』とか、フランクルの『夜と霧』とかと同じタイプの重さ。

これも人を選ぶのですすめないでおく。

気になった方はどうぞ。




ラストは最初の一文。

タイトルと似ているが、最初の一文で引き込んでくる作者に外れはいない。

その作者の全てがそこに凝縮されていると言っても過言ではない。

最初の一文を読んで面白い、とか、なんだこれ、とか感じたら買ってもいいかもしれない。




まあこれで買ったのは言わずとしれた名作、文豪•夏目漱石の代表作『吾輩は猫である』だろう。

これは最初の一文がタイトルというちょっとずるい選び方かもしれないが、これは面白かった。

猫の目線で人間を切るのは実に痛快極まれり。

ブラックユーモアや風刺の聞いた作品だ。


幸いにもこれは安心しておすすめできる。




ここまで私のおすすめの買い方を述べてきたが、最終的に買う判断をするのは自分自身だし、無理にタイトルやら装丁やらで選んで買っていると、簡単に破産する。

本を選ぶ際の取っ掛かりになれば幸いだ。




あとは、買う前にジャンルを確認しておくことだ。

ホラーなのに、装丁やタイトルでは予想できなかったため買ってから泣き叫ぶ、なんてことがあっても私に責任はとれない。




本選びは実に楽しいが、同時に刺激的な賭けでもあり、自分の見る目を試す試練でもある。

しかしながら、それを乗り越えて面白い本、感動する本に出会ったとき、その感動と痛快感は何物にも代えがたいものがある。



まさに本選びとは苦難と陶酔の入り混じった未来の選択なのだ。



では、また次回。

リボンがほしい


春は、スギ。
やうやう酷くなりゆく鼻詰まり、少し苦しく、風が立てたる埃の、我を痛めつけたる。




花粉症だ。
辛い。




昔から花粉症自体はあったのだが、近頃、というかこの三年ほどでとみに悪化した。

花粉症の症状といえば、鼻づまりや鼻水に代表されるアレルギー性鼻炎や、目の痒み、充血に代表される結膜炎などが一般的である。

私もその程度の症状なら慣れたものだ。

しかしながら、これに別の症状が加わると辛いことこの上ない。




まずは頭痛。
これが厄介で頭がグラグラする。
ひどいときは歩くのもフラフラだ。


次に喉。
咳は出るわ、声は出ないわ、もうどうしようもない。


さらに肌。
体中を駆け巡る痒みと言ったらない。


最後に、これが一番酷いが、眠気。
ふらふらし過ぎて枕から頭が上がらない。

この眠気、普通の眠気とは異なり、いきなりがくんとくるものだから、春期講習のときは大変だった。

話が飛んでたり、問題を解いていなかったりと苦労した。




このようにたくさんの状態異常を抱えているのだが、最近は少し落ち着いたようだ。

それこそ少し前は世界を呪っていたほどだったから、まあ良くなった。



RPG―と言ってもしっかりやったことがあるのはFF7のみだが―で言えば、状態異常が重ねがけされてコマンド入力が出来ないようなものだ。

あれは辛い。

だって「こんらん」とかだと、敵に回復アイテム投げたり自分に攻撃したりするんだぜ?

実に厳しかった。



と、ここで、FF7をやったことがある人ならばわかると思うのだが、タイトルにつながるのだ。


かのゲームでは武器、防具の他にアクセサリなるものがキャラに装着できるのだが。


その中で全状態異常無効という無類の強さを発揮するアクセサリが「リボン」なのだ。



今でも有名なチョコボ頭こと不遇すぎる主人公、クラウドは精悍な青年として描かれているが、その彼のつんつんとした金髪にフリルのついたリボンがふわふわと揺れているだろう光景は、なかなかシュールなものがある。



実際は頭についているわけでもなく、キャラが装着している様子がわかる描写もないため想像なのだが。




そもそもなぜリボンなのか。


他のアクセサリは「〜の腕輪」とか「〜のベルト」とか普通のものなのに。

制作陣は何を考えているのだろう。




とは言ったものの、実はFF7の制作陣はとても茶目っ気があり各キャラにネタ武器が存在する。


主人公クラウドは剣使いなので、釘バット

あとは槍使いがモップ、拳闘士は軍手、手裏剣使いはスーパーボールなどなかなか多彩なネタを披露している。


皮肉なことにこれらのネタ武器は並の武器より攻撃力や命中率が高い。


物理特化だけれども。




ちなみにクラウドは最終ボス戦後、最後の敵とサシで戦う一幕があるが、そのときに釘バットを装備しておくと、弱ったボスを主人公が釘バットフルボッコにするといういじめと見紛うばかりにエグい光景を拝むことができる。



そのためだけに(あとは純粋な好奇心)最終ボス戦前でセーブし一度クリアした後、ついでとばかりに他のメンバー全てにネタ武器を持たせて、ボス戦に挑ませたときは実に面白かった。


うわ軍手つよい。




ネタ武器談義に花を咲かせてしまったが、リボンの話だ。

違う、花粉症だった。


…どっちだっけ?


とにかく弟と花粉症の話からリボンの話をしていた時だ。

弟もFF7を攻略している。



 
私「どうにもこうにもリボンがほしい」
弟「わかる。あれあったら生活が豊かだよね」
私「なぜこの世界にリボンはないのか…」
弟「そりゃ現実だからでしょうよ…。あ、ラッキーカラーブルーだってさ」
私「ブルーリボンか、似合うかね?」
弟「ばーか」



と、ここまでは良かった。



私「ブルーリボン欲しいな。将来やってみるか」
弟「持ってた方がいいかもね。隣の国に喧嘩売るならもっとやろう」
私「は?いやいや、なんでお隣の国の話に?」
弟「いやいや、ブルーリボンだろ?」
私「だからブルーリボンだって」
二人「「……?」」
私「ま、まあ持ってなくてもいいか。たかが冗談だし」
弟「どういう意味だ、この非国民」
私「何喧嘩売ってやがるこのガキ」
二人「「………?」」




結局のところ、私はブルーリボン映画賞の話をしており、弟は北朝鮮拉致被害者を救う会ブルーリボン運動の話をしてたわけだ。


弟は激しく北のお国が嫌いなのだ。


調べてみてわかったがブルーリボンはいろいろな種類がある。

映画賞や運動、鉄道や船舶に対する賞など多岐にわたっていた。

生半可な知識はいけない、と弟と二人で戒めあった。


嘘のような本当の話である。




たかがリボン一つで喧嘩が勃発しかけ、別なリボンは状態異常を無効にする。


「こんらん」を生む存在ではあるがそれを鎮めるのもまたリボンなのだろうか。


この世界は意外と些細なもので平和になるのかもしれない。




いっそのこと、各国首脳が頭にリボンつけて一緒に踊ったら世界平和になるんじゃねえか(投げやり)。



今の私は世界平和より花粉症をどうにかして欲しいけども。



ではまた次回。

キャラクターは鮮やかに色褪せる 2

昨日に引き続いて文芸作品における外見描写の変遷について、考察を垂れ流そうと思う。

前回は竹取物語舞姫という有名作を例に引き、描写について観察をした。

今回は考察•解答編である。

どうぞよろしく。




さて、それでは。

現代に戻る前にやることがある。

まずは先日の質問に対する解答を考えたい。


すなわち、「なぜかぐや姫はいつでも美しいのか?」という問いの答えは何か。


皆さんは真剣に考えてくれたことと思う。

あくまで私見ではあるが、私の考える答えは。


「美しいと書いてあるから」。


これに尽きる。

これを聞くと馬鹿にするな、とお怒りになる読者がおられるかもしれない。

決してはぐらかしているわけではない。

だが言葉が足りないことは認めよう。


正確には「美しいと『だけ』書いてあるから」だ。




つまりここで前々回の話につながるのだが、

―ここまで読んできてくれた皆さんには申し訳ないのだが、流石に前々回の記事を要約するのは厄介なので、興味を持たれた方は一つ前の記事を読んでほしい―

やはり「想像」が鍵となるのだ。


竹取物語の描写では、ただ光り輝くように美しいとだけあり、顔はどう肌はどう、などの記述はない。

舞姫の描写でも同様に、日本人と異なる部位の強調と主人公にとって特に印象的なパーツの強調に留まる。


すなわち想像の余地が多分に存在する。


この「想像の余地」こそが、かぐや姫を千年の歴史による摩耗や劣化から守っていたのだ。

先程かぐや姫よりもエリスの方が顔を描き易かろう、と言ったのも「想像の余地」の広さの問題だ。

かぐや姫よりもエリスの方が、描写が多い分イメージしやすい、ということは自明である。




いつの時代においても「美しい」基準は存在する。

時代だけでなく読者個人の「美しい」基準も数多存在する。

その全てにおいて「想像の余地」こそが読者の想像を掻きたて、彼らの中での「『最上級の美しさ』を備えた完璧な女性」を脳裏に描き出した。


ゆえにかぐや姫は、エリスは、色褪せぬ永遠の美しさを保ち、未だ美人の称号を手放さないのである。




さて、翻って現代の作品。

特にライトノベル系統に増えているのだが、詳細な外見描写が特徴的だ。


髪型、髪色、眉毛、目の形、瞳の色、輪郭、肌の色、耳の形、唇の肉付き、歯の形、顎のライン。

手足の細さ、長さ、スタイル、身長、体重、年齢。


事細かに定められた強固なキャラクターはブレることなく作家が敷いたレールをひた走る。

設定が強固であるが故にバックボーンが際立ち、各キャラの個性が活かされ、それがまたストーリーが進む際に大きなエンジンともなる。


今のライトノベル業界、特にファンタジー系統における名作とはすなわち、強固な設定を持つキャラが壮大かつ緻密な設定のストーリーと噛み合い、一糸乱れず進んでいくという、そのパワーと予定調和が十二分に発揮されている作品だろう、と私は考えている。




それもいい。

設定が詰め込まれたキャラはほぼ一切ブレないため、想像がしやすく迷走しない。

さらに途中で変化が加わる場合の、一瞬にして新しい設定へと変化する、あたかも蝶の羽化を見るような美しさもまた細かい描写ゆえに生まれるものだ。


例えば「かぐや姫が髪を切った」と言っても元々の描写がないために、そこまでの感動はない。

しかし、「サ○エさんがストレートヘアーになった」と言われたときの衝撃は計り知れまい。

少なくとも私は飛び上がって驚く。

サザ○さんとかぐや姫の違いは設定の細かさにある。




この変遷は何が原因なのか。

私はゲームやアニメが影響していると考えている。


凄まじいまでの技術革新と作画レベルの向上、デジタル絵の普及につれて、アニメやゲームのイラスト、作画は著しく上昇した。

それの影響か、作家、特にネット及びSNSによく触れるであろうライトノベル作家達はキャラの視覚的イメージを作りやすくなった。


キャッチーでインパクトがあり、テンプレート。


キャラクターに与える色彩も豊かになっていく。

また、キャラに対し小難しい形容表現を使用することが重要でありかっこいい、というよくわからない風潮も、設定を詳細にしていくという流れを大きく後押ししている。




強固かつ詳細な設定が悪いわけではない。

だが、段々とその形容詞が独り歩きし始めていることに気づいている人はいるのだろうか?


その形容詞達は「属性」と名前を変え、多種多様なキャラクターにタグ付けされることになった。

それこそ「金髪」「健気」「美少女」「不憫」などとタグ付けされたキャラクターなど、数え切れないほど存在する。

しかし、彼女らの中にエリスほどの存在感を残しているものがいるだろうか?

「想像」によって生まれる複雑な美しさと枠にはめられた単純な美しさ、どちらがより印象に残るだろうか?

私は前者であると思う。


彼女らの最大瞬間風速は確かに大きいだろう。

だがエリスのように百年を超えてなお吹き続ける風には、敵うはずもない。

ましてやかぐや姫をはじめとして、千年を超え息づく古典の登場人物とは比べるべくもない。


今から、百年。

立っているのは誰か、と私が問われれば。

エリスであり、かぐや姫である、と答えるだろう。




前述したとおり、作家たちは視覚的イメージに頼ることが増えた。

視覚的にイメージしやすい、いわばイラストにしやすい詳細な設定は実に色鮮やかで、読者からしても楽しいことは否定しない。

だが我々は、一時の単純な美しさをもって「想像の余地」を削り、自分たちで創造する「理想像」を生み出す前に無視している。

タグ付けされ、詳細な外見描写と設定という強固な枠を嵌められたキャラクターたちは、読者が読み取りやすい視覚的な鮮やかさを纏い、それがために量産化されたマネキンと化している。


いまや鮮やかな描写こそが、キャラクターの価値を、美しさを色褪せさせてしまっているのだ。




外見描写がいらないと言うわけではない。

竹取物語のごとく「美しい」と書くだけでは描写が足りないことも重々承知している。

だが下手に形容詞を連発したり、大した意味もなく美しさを披露するような行為は逆効果だ。

それは作者が強調したい部分がどこなのか不明瞭になる上、キャラクター、さらには話自体の主題がぼやける可能性が大きいからだ。




我々学生が書く作文や論文でも同様である。

修飾語や喩え話を連発しても内容が薄っぺらくなるだけであることはわかるだろう。

それと同じだ。




作者が生んだ世界で、作者が生んだキャラクターたちは息づいている。

その彼らが色鮮やかに色褪せていくのは、一人の読者として非常に残念だ。

我々人間には汲めど尽きせぬ想像力があるのだから、それを活用することも大事なのではないだろうか。






次回のネタは考え中…。

それでは、また次回。




P.S 私がタイトルを気に入っている理由、おわかりいただけただろうか…?

自分の中ではかなりのヒットである。

なので少し浮かれてます。

こういうの楽しいよね。

こんな私ですが、今後ともよろしく。

キャラクターは鮮やかに色褪せる 1


前回予告したとおり、今回も文芸作品系統のネタを書いていきたい。



と言っても、毎回読んでくれている優しい読者がどれほど存在するか私には図れないので、前回の文を引用することにしよう。


…というか今気づいたが、毎回読んでくれている読者以外にこんなブログをわざわざ読みに来てくれる殊勝な人はいるのだろうか?
大いなる疑問だ。


それはさておき。
件の文章がこちら。


『現代の日常を描こうが、近未来の戦闘を描こうが、異世界の魔法を描こうが、作者の意図や想像といったものは必ず表れる。
昨今の、詳細な設定を是とし、キャラの細かい外見描写を重視する風潮はここに起因する…と、この話は長くなるので次回に回そう』


つまり今回のテーマは。

「文芸作品全般における外見描写の変遷」

である。


今回は例を挙げながら考察していく。



さて、さかのぼること千年からいこう。
言わずとしれた「竹取物語」である。


その冒頭の一節はあまりにも有名であるから割愛する。

ちなみに「竹取の翁」「おじいさん」と親しまれる、かのご老人は名を「さぬきのみやつこ」という。

さらに余談だが我らがヒロイン、「かぐや姫」は本名を「なよたけのかぐや姫」とおっしゃる。


ま、これはトリビアだが、本題に入ろう。

次の文を見てほしい。


「三寸ばかりなる人いと美しうていたり」

「この児のかたち清らなること世になく、家の内は暗き処なく光満ちたり」


一体どんな美人なのか。

光り輝くばかりの美しさは心が洗われるようだ、とばかりにこれでもか、これでもか、と美しさを強調している。

ここまで美しいと言われる人物はこの人以外には、かの有名な最古のハーレム王である色ボケ男だけだ。




最上級の美しさを示す形容動詞、「清らなり」。

この二人以外には使っちゃだめだよ。
暗黙の了解か知らんが皆使わないから。

古典で美しいという意味の五文字を答えよ、と言われたら「きよげなり」で答えた方が身のためだ。




また話が逸れた。

ここで注目したいのは、ただ「美しい」としか言っていないゆえに顔形が判然としないところだ。

おそらく髪は艷やかな黒髪だろう。

眉は理想的な曲線を象り、切れ長の目は澄んだ光を湛えているのだろう。

鼻梁はすっと通り、頬は健康的な赤味を含んで優美な曲線を描いているのだろう。

薄くもなく厚くもない唇には見るものを魅了する微笑を乗せているのだろう。

肌は抜け落ちたように白く、手は白魚のごとくたおやかなのだろう。

目の覚めるような美人である。



…と、こう書くと実に素晴らしい女性に思えるだろう。

だが、これは嘘だ。

妄想だ。

忘れてはいけない。
これが書かれたのは約千年前なのだ。
美人の条件は異なっている。


先の描写で合ってるのは黒髪くらいではなかろうか。
作者はこんな描写を全く考えていなかったはずである。


にもかかわらず、「かぐや姫は美人」という話はいつの時代も色褪せることなく現代にまで続いている。

なぜ美しさの基準までもが変遷するほどの年月を経ても彼女は美しいと評されているのか。


少し考えておいてもらいたい。


次の例にいこう。




次は約百年前から。

ゲス男と健気な美少女の倒錯した恋愛談、「舞姫」。


その一節から、ヒロインであり我らが大天使エリスと、エリートゲス極男、豊太郎の邂逅を引用しよう。


「―声を呑みつつ泣くひとりの少女あるを見たり。年は十六七なるべし。被りし巾を洩れたる髪の色は、薄きこがね色にて、着たる衣は垢つき汚れたりとも見えず。我足音に驚かされてかへりみたる面、余に詩人の筆なければこれを写すべくもあらず。この青く清らにて物問ひたげに愁を含める目の、半ば露を宿せる長き睫毛に掩はれたるは―」


打ちました。
大変でした。
引用元は現代文の教科書(東京書籍)です。


さて、今回は金髪碧眼の外人美少女である。

竹取物語と異なりなかなか描写が細かい。

頭を無造作に包んだのだろう、頭巾から一条、二条と溢れる金髪は柔らかく街灯の光を反射する。

足音に驚いてか、こちらを振り向いたその顔は美しく、愁いと涙を湛えるのは長い睫毛と、青く澄んだ瞳―。


いや、もう美人である。
この辺でお腹いっぱいと言いたくなるが、もう少し。


「我眼はこの俯きたる少女の震う項にのみ注がれたり」

「彼(エリス)は優れて美なり。乳の如き色の顔は燈火を映じて微紅を潮したり。手足の細くたをやかなるは貧家の女にも似ず」


主人公、ド変態である。


ちなみにこの後主人公が泣き出したエリスにそっとお金を差し出すのだが、潤んだ上目遣いで主人公の手を押し頂くように握り、手の甲に涙をこぼすシーンがある。


正直に言おう。


めっちゃかわいい。


いやもう健気な美少女がはらはらと涙を流しながら手をとって感謝してくれるんだぜ?

破壊力抜群だよな。

さすが大天使エリス様である。



ちなみにここでも「―青く清らにて―」とあるが、古典じゃないから。

さっき言ったのも嘘じゃないよ!

古典作品じゃ高校範囲なら多分出てくるのは源氏物語竹取物語だけだから!

出てきたらごめんね!



話が逸れまくっている。
軌道修正して描写を見よう。

まずは金髪碧眼の記述あり。
そして項は美しく、ミルク色の肌は健康的な紅を帯び、手足は貧しい家に似合わず(貧家では女性でも力仕事をやったということだろうか?)細くたおやかだそうだ。


かぐや姫と比べて実に描写が多い。

かぐや姫は髪の色や目の色、ましてや肌の色なんて描かれていなかったじゃないか。

手足の様など論外である。


こうすると、神秘のヴェールに包まれていたかぐや姫よりはっきりとエリスの顔が窺える。

目鼻立ちはわからないが整っているのだろう。

印象的な金髪碧眼を持つ異国の少女。


少女は、かぐや姫よりもずっとすっきり脳裏に描けるのではあるまいか。



さて、ここから本題の考察へと入りたいがタイムアップ&文字数だ。
大体一回に2000字位なので今回はここで終わり。


明日はこの話を終えます。

それでは、次回もよろしく。




P.S 今回のタイトルは個人的にめちゃくちゃ気に入っている。

なぜ気に入っているのか、その理由もわかると思うので次もぜひ御一読を。



また明日。

実写化という名の悲報

『○○待望の実写化!』


『あの傑作がついにスクリーンで!』



こういう広告を見ると実に辛い。

「ああ、作品離れが進んでしまいかねない…」

と、ひしひしと危機感が私を苛むからだ。




というわけで、今回は予告どおり実写化の話をしよう。
私の悲哀と憤りをどうか聞いていただきたい。




実写化とは何なのか?

文字通り、小説であったり漫画であったりを実在の人物に起こして演じさせるものだ。

それにどんな意味があるのか?

それがわからない故に、昨今の実写化至上主義とも言うべき風潮に私は困惑するのだ。




別にちはやをふったり結んだりする映画とか、死神が出てくる死の手帳とかに物申そうというわけではない。

実写化され大ヒットした作品が多いことも重々承知だ。


だがしかし。

なぜ小さい錬金術師とか攻撃してくる巨人とかを実写化する必要があるのか?

そこがどうしてもわからない。




そも、小説や漫画とは架空の世界を構築するものだ。

小説はそれを文字のみで為し、漫画は絵と文字で為す。

作者の頭の中には、作品の完成形、向かう先、キャラクターの輪郭や背景、構築した世界観が必ず存在する。

向かう先を決めていない方がいるのは知っているが。

それはどんな状況設定の作品にも変わりはない。

現代の日常を描こうが、近未来の戦闘を描こうが、異世界の魔法を描こうが、作者の意図や想像といったものは必ず表れる。

昨今の、詳細な設定を是とし、キャラの細かい外見描写を重視する風潮はここに起因する…と、この話は長くなるので次回に回そう。


意図せず次回のネタを得た。

話を戻して。


とにかく作者の意図や想像は同時に読者にも多かれ少なかれ伝わるものだ。

しかしながらその伝わり方が各個人によって異なるのはもちろん自明である。

特に小説ではそれが顕著だ。


一例を引こう。


『黒髪の美しい人』


この単語を見て想像したのはどんな人物だろうか。


単語を見たのが男性ならば。

黒髪を結い上げた和装美人かもしれない。

黒髪を腰まで流すドレスを着た美女かもしれない。

もしかすると、ショートカットのボーイッシュな少女かもしれない。


単語を見たのが女性ならば。

黒髪を刈り上げた野生的な魅力の男かもしれない。

黒い癖毛を遊ばせる物憂げな美青年かもしれない。

もしかすると、長髪を一本縛りにしてモノクルをかけた学者風の紳士かもしれない。


漫画のごとく絵がないゆえに、人物設定が簡素だと同じ作品内であってもそれこそ何百万、何千万もの『黒髪の美しい人』が誕生するわけだ。



そんな数多の想像を完全に破壊するのが実写化である。


先の例を引けば、『黒髪の美しい人』というのを俳優の某という枠で固定してしまう。

想像とその俳優が合っていた、という人ももちろん存在するだろうが、まあ一握りだろう。



だが、「人物設定が簡素」な小説はまだ許容範囲が広い。


なぜならば「簡素」ゆえに、「こういうのもあるのか…(孤独のグry感)」という視聴者の納得を得ることが出来る。



反対に「詳細」な小説はなかなかに難しい。

ほぼ確実にその設定に合った俳優を見つけるのは無理だからだ。

だんだん許容範囲は狭まってゆく。




さて、ここで人物設定以外も注目してみよう。

それは「作品の世界」である。

例えば現代日常系統や推理小説、犯罪系統の小説も「現代」や「昔の現実世界」という観点から、知った役者が出てきても納得しやすい。

先に例として上げたちはやをふる漫画なんかもその類だろう。


架空物はなかなかに難しい。
いくらCGが発達しても先程言ったように、世界そのものにも数多の想像が存在するからだ。
制作側と視聴者側の差異が大きいとよろしくない。



 
ここで一つ、実写化以外にも目を向けてみる。

アニメ化•コミカライズというやつだ。



コミカライズという奴はわりといける。

なぜか。

前の話題につながるが、実写化に比べ自由度が高いからだ。

俳優という個性を持った人間に比べ、そのキャラのためだけに構築されたキャラ絵はいかようにでも描ける。

外人だろうが異世界人だろうが異種族だろうがドンと来い、というわけだ。




対してアニメ化。


これも自由度は高めだが、「声」と「動き」、そして「間」が加わることでコミカライズには自由度で劣る。


意外とこの「間」というヤツは大切だ。

ギャグ漫画を日常的なゆったりした速度でやられると作品の良さは活かされない。

しかし実写化よりは無理な動きが出来るので、まだ許容範囲内であろう。




ここまでを踏まえて。

小説の映像化というのは難しい、ということが伝わっただろう。


しかし。
しかしだな。

小説はまだ自由度が高いのだよ。


数多の想像があるというのは、前述した危険性を内包するとともに、許容範囲が広いことの裏返しになり得るからだ。


問題は漫画の実写化だ。





これは難しいなんてもんじゃない。


まず「絵」と「ストーリー」、それに「キャラ」「種族」「動き」と来た日にゃ匙を投げたくなる。


限りなく自由度が低い。


先程から言っているように、日常系ならばまだわかる。

ただ架空物はいけない。

絵でキャラが設定されているとき、読者が想像するのはその絵しかないからだ。

とすると絵に合わない俳優を使ってもあまり良くない。

ゆえに今一つになる。




また物理法則を無視した動きなんかをするバトル系統もいかん。

どうしたって無理が出る。

例外はメガネVS例のあの人の映画だろうか。

魔法は実にCG映えがするのでわかりやすい。

まああれは杖から魔法が出るだけで物理法則にはある程度従うからな。




さらに漫画では容易な、デフォルメしたキャラというのが使えない。


シリアスからゆるゆるした場面への転換がしやすい、というのがデフォルメの便利さだが、実写化ではそれは難しい。


 
さらにさらに言えば、別な役をやっていた役者さんが他の役をやっていたときの違和感というのも出やすい。


俳優は「そのキャラだけの」俳優ではないからだ。





さて、ここまでの流れでおおよそ私の言いたいことを掴んでくれたと思う。


要は二次元を三次元に持ち込むな、ということだろうか?


二次元では自由度が抜群に高いのだ。


その中では数多の想像が羽ばたき、作者の意図を曲がりなりにも捉えた読者の楽園が存在する。


それに実写化という枠を嵌めることは、あたかもヴィーナスの失われた両腕を復元しようとする試みに等しい。



個々人の「世界最高」を汚すのは文化の冒涜でしかあるまい。





もちろん実写化されることで作品がさらに磨かれるようなときもある。


ゆえに極端なことは言い切れないのだが、大多数の作品においては、多くの人が私の意見に同意してくれるのではないか。


まあそれは、読者の判断を仰ぐしかない。




と、まあこんなところで実写化についての考察を終えよう。

一つだけ付け足すとしたら。


制限時間に収めるために脚本弄るのはマジでやめろ。

作品を汚すな。


それぐらいだ。




だが、我々視聴者側も懐を深くすることは必要だ。

頭ごなしに否定しては何も生まれないのだから。


それこそ「こんなのも(ry)」と広い心で受け入れなくてはならない。



 
ということで、今回はこの辺で終わり。

次回は前述したとおり、近頃の小説や漫画の風潮について書こうかな。




それでは。